手術後、まる5年を迎えて

 1月19日は、私にとって第二の誕生日のようなものだ。麻酔薬で意識を失う前、「目覚めさせてくださいよ」と念を押して手術室に入ったのは、ちょうど5年前。回復室で生きかえったのは、半日後だった。開腹は9時間に及んだ、と後で聞いた。

 経過はこうだ。まず、その前の月、クリスマスイヴに、尿が紅茶色になった。驚いて近くの公立病院の泌尿器科を受診、「黄疸が原因、泌尿器の異常じゃない」といわれ、消化器内科に回された。そのまま入院、そこから闘病が始まった。その日に受けた胃カメラで、胆汁の出口にできた腫瘍が黄疸の原因とわかり、とりあえず、チューブを刺して停留している胆汁を排出する応急処置を受けた。腫瘍が悪性のもかどうかは病理検査によって判断され、結局、消化器外科で手術を受けることになった。いったん退院し、紹介された病院で、この日の手術が行われたわけだ。

 術前には比較的初期のものと説明されていたが、開腹したところ、原発部位の近くにある2個のリンパ節に転移が確認されのですこし進行した状態だ、と術後、担当医から告げられた。5年生存率は50%よりはいいだろうという話だった。担当医に、何年生きたいかと問われ、「5年は」と答えたことを覚えている。「大丈夫」の確約はえられず、「5年ですか」とだけ言われた。どっちに転んでもおかしくなかったのだろう。

 胆管がんや膵臓がんのように、治癒率が極めて悪いがんのすぐそばに位置しながら、私のファータ乳頭部がんは、助かる可能性が比較的高いとされる。その点が私にとって不幸中の幸い、生きる希望が持てた。とはいえ、急性膵炎で2度緊急入院、手術の縫い目(縫合部)周辺にできた潰瘍から出血して重度の貧血になり、入院して輸血を受けたのが1度。そのたびに急場を乗り越えて、5年を迎えた。振り返ると、あっという間だったような気もする。

 目標にしていた区切りの日を迎え、これからは贈り物のようにして与えられた時間を大切にしたいと思う。もうけものを生きているのだから、ここで人に迷惑かけちゃいけないだろうなあ。(了)  

 

 

 
 
 
 
 

◎バルト3国・ポーランド紀行12

クラクフの休日

 

 ツアー最終日、アウシュビッツ・ビルケナウ見学と夕食がオプションで組まれていた。私たちは数年前に行ったことがあるので、パスしてゆっくり過ごすことにした。朝オプション組のバスを見送ったあと、タクシーでユダヤ人が居住するガジミエシュ地区へ向かう。前日行ったシンドラーの工場の対岸で旧市街に隣接している。クラクフはヨーロッパの中でも、ユダヤ人が多い町だそうだ(㊦)。

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 同行してくれたコンダクターがホテルで、入場できるシナゴーグユダヤ教教会)があると聞いて、そこへ行ってみたが、鍵がかかっていた()。

シナゴーグが博物館になっているところが10時に開くので、そちらに回った。玄関前の広場に課外学習なのか、生徒たちが集まっていた。月曜日だったので無料。ちょっとラッキー。

 中に入ると、クラクフでのユダヤ人の生活を紹介する展示があり、英語版のビデオも放映されていた(㊦)。

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 午後は、オプション組と合流して岩塩鉱へ。入り口で順番を待っていると、年配のツアーグループがいた。アトランタから来たという老夫婦は、私たちが「日本から来た」と言うと、「夫はネービーで、東京に1年いた」と懐かしそうに話していた。

 今は、生産されていないが、かつてここで産出される岩塩で国の財政の3分の1を賄ってきただけあって、その規模には圧倒される。この国では、塩は高価だったので、普段は塩控えめの食事をして、お客さんには、塩辛い食事を出して、けちけちしていないことを示そうとしたとガイドは説明していた。そういえば、こちらのスープは塩が利きすぎているようだった。坑内は鉄さびを避けるため、支えているのはすべて木材(㊦)。階段をひたすら降りて地下130メートルに達する。そこから見学しながら下がっていくと、深さは約160メートル。帰りはエレベーターだった。

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 採掘した岩塩を運ぶために馬も使われていたという。巨大なホールや聖堂もあり、さながら地下都市のようだ(㊦)。ミラノにあるダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』を岩塩の彫刻で再現したのには感心した(㊦)。

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 私たちは、午後6時から自由時間を利用してコンサートに行こうと、出発前、ネットでチケットを取っていた。地下をうろうろしている間に時間が経過、バスが出発したのは5時過ぎになっていた。夕方のラッシュに遭遇すれば間に合わないのではないかと心配していた。幸運にも、郊外から市街地へ向かう道は込んでいなくて、10分前に駐車場に到着、コンサートホールまでは駆け足で間に合った。私たちのことは運転手に伝えてあったので、少し急いでもらったのだろう。感謝。

 4重奏の室内楽で、30席ほどのこじんまりしたホール(㊦)。名前は『ショパン・コンサートホール』と、立派なのだけれど。プログラムは、バッハ、ヘンデルモーツアルト、もちろんショパンも。ヴィバルディ『四季』の春や映画『ゴッド・ファーザー』のテーマ曲など、素人にもなじみの曲ばかりだった。

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 ホールを出たすぐのところにある繊維会館に灯りがともっていた()。私たちは、オプション組がレストランからホテルへ帰るバスに便乗させてもらう約束だったので、待ち合わせ場所に急いだ。ところが、道を間違えてとんでもないところに出てきた。困り果てているとき、子どもを肩車している若い父親が歩いてきた。呼び止めて、道を尋ねようとしたが、行き先の名前が分からない。仕方がないので地図で「この公園」と示すと、「それならその角を左へ曲がってまっすぐ行け」と教えてくれた。親切さが身に沁みる。

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 不安がる妻を急き立てて公園を目指す。遠くからバスが見えた。やれやれ。こうして、旅の最後の日は、疲労とともに終わった。あとは、クラクフからヘルシンキ経由で日本に帰るだけだ。(

◎バルト3国・ポーランド紀行11

古都クラクフを歩く

 

 ワルシャワからクラクフまでは列車移動、スーツケースはバスで運ばれるので、手荷物一つの気軽な旅だ。駅近くで昼食を摂っている間にバスは到着していた。休まずひた走った運転手に感謝。

 クラクフは王城の地で、京都のような古都だ。街の中を馬車が行きかっている。観光客を乗せているらしい(㊦)。余談だが、この旅でどの国でも、よく見かけたのが電動キックボード。街角に乗り捨ててあったりする。会員制でシェアしているところもあると聞いた。セグウェイより子供の遊具に近い。

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 まず向かったのは、旧市街のはずれにあるヴァヴェル城(㊦)だ。王様の居城だった。坂を上がって中に入ると、広場があって、観光客は木陰で休んでいた。上着もいらないほど暖かい。日本を出発する前、厚着するようにと言われていたが、予想以上に天気がよかった。建物の中では、王族の暮らしや接客の様子が展示されていた。

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 ここから市街地を中央市場広場まで歩く。広場の真ん中にあるのが織物会館で、1階には、宝飾店、衣料品店、土産店などがびっしりと並んでいる。私たちは、両側の店を観察しながら通り抜けた。

 広場の横に聖マリア教会がある(㊦)。左右2本の塔の形が異なっており、不思議な気がする。背の高いほうの塔の窓から、ラッパが出て、時を告げるのだが、曲の途中で中断するのだそうだ。かつて、ラッパ手が吹いている時に敵に襲撃されたて死んだ故事に基づいているそうだ。教会内は見どころいっぱいとガイドブックにはあるが、今回は見送りだ。

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 自由時間になったので、妻は土産物屋に入った。ここは琥珀の産地で、安いものから高いものまでそろっている。中には深紅の珠のようなものもあって、高い値段がついていた。妻は琥珀には興味がなくて、何やら小物を探しているようだった。外の花壇に腰かけて待っていると、中国人のような男性が話しかけてきた。ロスからきたという彼は「ソイル・マイニングに行ってきた」と聞こえたので、土なんか掘って考古学者かと思ったが、聞き間違いで、「ソルト」だったのだ。「岩塩鉱なら明日行く」と言ってやればよかったと後で悔やんだ。『Gate1』のタグを見せてくれたが、旅行社の名前だった。

 広場を出て立ち寄ったのが、ヤギェウォ大学(㊦)。14世紀に創設されたポーランドで最も歴史のある大学だ。古くは、天文学者コペルニクスが、最近では、前のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が学んだところだ。私たちのガイド(㊦)もここで日本語を学び、お茶の水女子大学に1年間留学、「向田邦子を専攻していました」と話していた。未婚かと思ったら、夫も子どももいるとのこと。

 

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 この日最後に訪れたのは、シンドラーの工場。映画『シンドラーのリスト』で紹介されているように、1000人とも1200人ともされるユダヤ人を自分の経営する琺瑯製造工場で働かせることで、アウシュビッツのような絶滅収容所へ送られるのを防いだ。ナチの軍需工場という名目があったので無理が効いた。

 工場は「クラクフ歴史博物館」のひとつになっており、ナチ占領下のユダヤ人の暮らしが分かる展示があり、製品の琺瑯シンドラーと救われた人たちの顔写真がびっしりと並べられている(㊦)。

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 夕食はポーランド風カツレツ。油分がだめなので衣を外して食べたが、中身はチーズのようで、スルメみたいだった。店にかかっていた絵は、なぜかダヴィンチの肖像画の複製。後で調べると、ダヴィンチの肖像画は4点しか存在しないとされるが、そのうちの1点の『白貂を抱いた貴婦人』がクラクフの美術館に所蔵されていることがわかった。だから、その複製があそこに飾ってあったのか。(続く)

 

 

◎バルト3国・ポーランド紀行10

復興の街ワルシャワ

 

 私にとってのワルシャワは『ワルシャワ労働歌』の街だ。まだ学生運動という言葉が何かしら意味を持っていた時代、反抗することで社会への申し立てをする、その一点で集まっていた。そうした集会で合唱されたのがこの歌だった。もともとは、1905年に始まった第一次ロシア革命のときの歌だそうだ。サンクト・ペテルブルグで発生したゼネストワルシャワにも波及し、スト参加者が多数殺された。

 肝心の、歌に関連する場所に行くことはできなかったが、何度もあったワルシャワ蜂起の跡はみつけられた。ただ、「無名戦士の墓」は通り過ぎただけで、写真撮影に失敗。ポーランドは大国のロシアとドイツに挟まれた国なので、征服され、それに反抗する歴史を繰り返している。第二次大戦中、ユダヤ人が隔離された旧ゲットーにある「ユダヤ人歴史博物館」の前には、1943年にナチ・ドイツ軍に対して蜂起して鎮圧された英雄の記念碑(㊦)があった。映画『戦場のピアニスト』でワルシャワのゲットーが扱われているが、ガイドは「生き延びたピアニストですよね」と映画の話も知っていた。

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 あの映画でも出ていたように、ワルシャワの街はほぼ破壊されつくされた。そこから、復興した旧市街がユネスコの歴史遺産に登録されている。保存された街ではなく、復興の街が登録されるのは、異例なことだそうだ。この街が以前あったように再現したことがその理由のようだ。

 市場広場(㊦)の周囲のビルは古い時代を伝えているように見えるが、これも復元したものなのだ。

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博物館として観光スポットなっている旧王宮も、当然のように復元されたそうだ(㊦)。

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 市の中心地にある文化科学宮殿(㊦)は、復元ではなく、ソ連が作った「スターリンの置き土産」とされ、周りを圧する高さでそびえている。1989年にポーランド民主化されたあと、ソ連に押さえつけられていた恨みも募って、取り壊しの動きはあったものの現在に至っている。

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 このビルの30階に1周できる展望台がある。私たちもエレベーターで昇った。スカイツリーから眺望するようなものだ。結構込んでいて、空いている窓を見つけながら回った。ガイドに言われて、下の道路を見てみると、横断歩道が変わっている。ピアノの鍵盤を模して描かれているのだ。さすが、「ピアノの詩人」ショパンの生まれた国、と納得した(㊦)。

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 私たちは先を急がなくてはならないので、ゆっくり街を散策するひまはない。ノーベル賞を2度受賞したキュリー夫人の生家()や、ワルシャワ大学は外側から見ただけだった。(続く)

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◎バルト3国・ポーランド紀行9

ショパンを巡る

 

 ショパンは1810年、ワルシャワ郊外で、フランス人の父親とポーランド人の母親の間で生まれている。1830年にウィーンに向けて出立、その翌年パリに落ち着いたのだが、ワルシャワ時代にもすでに活発な音楽活動を行っている。ピアノ演奏だけでなく、ピアノ協奏曲1番などの著名な曲も作曲していると解説にはある。

 当然のように、ワルシャワ観光はショパンの跡を追うことになるが、多すぎて覚えきれない。

 最初にやってきたのはワジェンキ公園。池の脇に大きな木の下で、身を反り返らせたショパン銅像がある(㊦)。柳の木で、ショパンにはなじみの木だという。あとで、郊外にある生家に向かったさい、道路わきを観察したが、ポツリポツリとしか柳はなかった。200年も経って植生は変わったのかもしれない。

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 ショパンの像から少し離れたところに、一つ年下のリストの像もあった。ショパンが「ピアノの詩人」なのに対し、「ピアノの魔術師」だ。こちらの像はかなり小ぶりだった。

 公園内の何か所かに黒い平板なコンクリートのようなベンチが置いてあった(㊦)。

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表面の丸いボタンを押すとショパンピアノ曲が流れるようになっている。このベンチは公園だけでなく、街の歩道でも見かけた。ベンチによってそれぞれ別の曲がかかるという。

 公園内を散策すると、すっかり秋が深まっていた。落ち葉の上をリスがかけまわり、クジャクもみかけた。「ここにクジャクがいるのかな」と、ちょっと驚いた。残念ながら、羽を広げることはなかった。

 街の中でも、「ここの教会ではショパンが何歳のとき演奏した」という場所を何か所か見て回り、最後は聖十字架教会(㊦)。ここは中へ入った。ショパンは20歳でワルシャワを出ている。ロシアへの蜂起(ワルシャワ蜂起)もあって、2度と帰ることはなかったのだが、ポーランドの伝統的なメロディーを作曲に採り入れているように、望郷の思いは強かった。

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 39歳で亡くなったとき、葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われた。私はこの寺院近くのホテルに泊まり、前を通りかかったことがあるが、その時はショパンの葬儀のことは知らなかった。ともかく、「私の体はポーランドに埋めて」というのが本人の遺言だったが、かなわなくて、心臓だけが壺に入れコニャックに浸して、姉が持ち帰ったというのだ。

 その心臓が、聖十字架教会の柱に埋め込まれている(㊦)。漆喰に

   FRYDERYKA CHOPINA

   HERE RESTS THE HEART OF FREDERICK CHOPIN

と書かれてあった。なぜそこに英語があるのか、わからなかった。

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 死因は肺結核とされている。それを確かめるため、研究者たちが2004年、ひそかに壺を開けて調べたが、DNA検査は行うことができず、確証は得られなかったらしい。

 郊外の生家には30分ほどかかった。農村地帯で、父がここの領主というか、貴族というかのフランス語の家庭教師だったからだ。当時のポーランド貴族にとってフランス語は必須だった。使用人住宅が生家だが、ショパンゆかりの家ということで、貴族の家にしかない玄関わきの太い円柱が、後に増築されたとガイドは説明していた。

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 周囲は大きな公園になっていた。ゲート横の事務所には売店があって、土産物を売っている。ツアー仲間の一人が、孫の土産にピアノの楽譜を入れるトートバックを買っていた。これを持ってレッスンに通ってもらおうというのだ。

 私たちのホテルの近くに、ショパン国際コンクールの会場があると知って、ワルシャワを出発する朝、駆け足で行ってきた(㊦)。次回の本大会は来年10月だ。(続く)

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◎バルト3国・ポーランド紀行8

 

ショパンの夕べ

 

 カウナスのホテルを出発すると、一路ワルシャワに向かう。この日は500キロ近い工程で、長いバス旅となる。私たちがこのツアーを選んだのは、妻がショパン・コンクールを扱ったアニメにはまっていて、舞台となったポーランドを訪れたいと強く望んだからだ。その意味では、いよいよ目的の地に届いたことになる。

 ポーランドの国境を越えると、まず訪れたのはヴィグリ国立公園(㊦)。湖水地方にあって、湿地に特有の動植物が豊かで、ラムサール条約に登録されているところだ。高台から望むと、静かな湖の水面、周りの緑あふれる自然、と保養や野外活動に向いているとおもう。しかし、国立公園と言うにしては、人影があまりない。トイレも無人かと思ったが、どこからか中年の女性が現れて5ズウォティ徴収された。約150円だ。

 

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 前のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がこの地を訪問した時に利用したという宿泊施設(教会だったかな)があったが(㊦)、食堂は開いていなかった。ヨハネ・パウロ2世はポーランド出身なので国内のあちこちに足跡が残されているのだ。

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 ここから、5時間かけて平野を走り抜ける。バルト3国では牧草地が多いようだったが、こちらでは畑地が広がっていた(㊦)。

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 ワルシャワに着くとまっすぐ夕食場所へ。ショパンと一家がなじみにしていたと伝えられる老舗レストラン『ホノラトカ』だ。ショパンが食べたという「ショパンメニュー」をいただいたが、あまり印象は残っていない(㊦は店の看板)。

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 私たちの席の横に、鍵盤が少し短い旧型のピアノが置いてあり、音大生のような女性がショパンピアノ曲を5曲ほど演奏した。どれもよく知られた曲だった()。

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 途中で一団がどかどかとやってきた。カメラやスマホをかまえ、片隅の席を撮影している。コンダクターが店に聞いたところ、ここが「ショパンの座っていた席」といことで、写真撮影してもらっているのだそうだ。月日が経っているので、確かなことはわからない。(続く)

 

 

◎バルト3国・ポーランド紀行7

命のヴィザ

 

 ビリニュスを出ると、30分ほどで保養地のようなところに着いた。湖に浮かんだ小島に赤茶けた城がある。トゥラカイ城だ()。城の観光が目的ではなく、昼食をとるためだ。

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 城の対岸を少し歩いて、レストランにはいった。出てきたのは、トゥラカイ名物のキビナイといって、パンの皮でミンチ肉を包んだパイのようなもの。普通は羊肉が使われるが、私たちが食べたのは、羊肉が一つとミートが一つだった。羊肉は癖があって食べにくいという人がいるので、旅行社が気を利かせて、2種類頼んだようだ。私にはどちらも食べやすかった。量はたっぷりあって、食べ残す人もいた。

 

 この日午後、やってきたのはカウナス第一次大戦後の混乱期にリトアニア共和国の臨時首都とされたところだ。ここにあった日本領事館で、多数のユダヤ人にヴィザを発給して命を救った杉原千畝の話は、テレビドラマにもなって、私たち日本人のなかでも知られるようになった。旧領事館の建物は『杉原千畝記念館』という名の観光スポットになっている(㊦)。

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 玄関の脇に記念碑があって、「希望の門、命のヴィザ」と彫られている(㊦)。2本ある桜の木は、すでに落葉が始まっており、前庭は黄色や赤に染まった葉っぱの絨毯になっていた。

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 私は、1940年に千畝がどんな事情でヴィザを発給したのか知りたいと思っていた。当時の日本は軍事同盟を結ぼうとしていたドイツ・ヒットラー政府のユダヤ人迫害に異を唱えるようなことはしたくなかったわけだから、発給の許可は与えられなかった。なぜ、本国の意向に背いたのか。人道主義に基づいていたと説明されているが、本当のところはよくわからない。心優しさのゆえかもしれない。押し寄せてきた何百人もの人を前に、拒否することはできなかったのだろう。彼らは、オランダ領事が発行したカリブ海あるオランダ領キュラソー島へのヴィザを持っていて、日本を通過するためのヴィザを求めていたのだ。

  千畝は本国の承認を得ないまま、独自の判断で決断。寝る間も惜しむように署名し続け、離任してカウナスを出発する列車のホームでも書いた(㊦)。救われたユダヤ人は、発給数から推定し家族を合わせると6000人に及ぶという。

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「東洋のシンドラー」ともいわれるが、のちに紹介するオスカー・シンドラーよりもその数は、ずっと多いのだ。もちろん、千畝だけでなく、オランダ領事やシベリア鉄道でたどり着いたウラジオストック、日本に船が着いた敦賀アメリカなどへ出港した神戸・横浜と、それぞれの場所でかかわった人たちすべてがあっての救出劇だった。ともかく、命令に背いた千畝の行為は、外務省にとって認められるものではなく、その後、解任されている。

 館内に入ると、まず、千畝を紹介する日本語のビデオを見る。彼はエリート外交官ではなく、旧満州ハルビンで学んだロシア語に堪能なスペシャリストだった。独ソ開戦が迫っていた当時、カウナスはその情報を集める前線基地で、千畝が赴任したのもそんな事情があったからだ。

 執務室がそのままの形で展示されており、希望者は、千畝の座った場所で写真撮影できるようになっていた(㊦)。

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 各展示を見て回ると、ユダヤ人社会から感謝されていたのが分かる。戦後、救われた人たちが千畝の足跡をたどり、再会を果たすことになる。1985年にイスラエルの委員会から「諸国民の中の正義の人」の称号を授与されたが、日本政府が正式に名誉回復したのは死後の2000年のことだった。

  館の裏庭にリンゴの木があって、実が落ちていた。ツアーの仲間が持ち帰って食べたが、「うまかった」そうだ。(続く)