◎バルト3国・ポーランド紀行10

復興の街ワルシャワ

 

 私にとってのワルシャワは『ワルシャワ労働歌』の街だ。まだ学生運動という言葉が何かしら意味を持っていた時代、反抗することで社会への申し立てをする、その一点で集まっていた。そうした集会で合唱されたのがこの歌だった。もともとは、1905年に始まった第一次ロシア革命のときの歌だそうだ。サンクト・ペテルブルグで発生したゼネストワルシャワにも波及し、スト参加者が多数殺された。

 肝心の、歌に関連する場所に行くことはできなかったが、何度もあったワルシャワ蜂起の跡はみつけられた。ただ、「無名戦士の墓」は通り過ぎただけで、写真撮影に失敗。ポーランドは大国のロシアとドイツに挟まれた国なので、征服され、それに反抗する歴史を繰り返している。第二次大戦中、ユダヤ人が隔離された旧ゲットーにある「ユダヤ人歴史博物館」の前には、1943年にナチ・ドイツ軍に対して蜂起して鎮圧された英雄の記念碑(㊦)があった。映画『戦場のピアニスト』でワルシャワのゲットーが扱われているが、ガイドは「生き延びたピアニストですよね」と映画の話も知っていた。

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 あの映画でも出ていたように、ワルシャワの街はほぼ破壊されつくされた。そこから、復興した旧市街がユネスコの歴史遺産に登録されている。保存された街ではなく、復興の街が登録されるのは、異例なことだそうだ。この街が以前あったように再現したことがその理由のようだ。

 市場広場(㊦)の周囲のビルは古い時代を伝えているように見えるが、これも復元したものなのだ。

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博物館として観光スポットなっている旧王宮も、当然のように復元されたそうだ(㊦)。

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 市の中心地にある文化科学宮殿(㊦)は、復元ではなく、ソ連が作った「スターリンの置き土産」とされ、周りを圧する高さでそびえている。1989年にポーランド民主化されたあと、ソ連に押さえつけられていた恨みも募って、取り壊しの動きはあったものの現在に至っている。

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 このビルの30階に1周できる展望台がある。私たちもエレベーターで昇った。スカイツリーから眺望するようなものだ。結構込んでいて、空いている窓を見つけながら回った。ガイドに言われて、下の道路を見てみると、横断歩道が変わっている。ピアノの鍵盤を模して描かれているのだ。さすが、「ピアノの詩人」ショパンの生まれた国、と納得した(㊦)。

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 私たちは先を急がなくてはならないので、ゆっくり街を散策するひまはない。ノーベル賞を2度受賞したキュリー夫人の生家()や、ワルシャワ大学は外側から見ただけだった。(続く)

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