◎バルト3国・ポーランド紀行9

ショパンを巡る

 

 ショパンは1810年、ワルシャワ郊外で、フランス人の父親とポーランド人の母親の間で生まれている。1830年にウィーンに向けて出立、その翌年パリに落ち着いたのだが、ワルシャワ時代にもすでに活発な音楽活動を行っている。ピアノ演奏だけでなく、ピアノ協奏曲1番などの著名な曲も作曲していると解説にはある。

 当然のように、ワルシャワ観光はショパンの跡を追うことになるが、多すぎて覚えきれない。

 最初にやってきたのはワジェンキ公園。池の脇に大きな木の下で、身を反り返らせたショパン銅像がある(㊦)。柳の木で、ショパンにはなじみの木だという。あとで、郊外にある生家に向かったさい、道路わきを観察したが、ポツリポツリとしか柳はなかった。200年も経って植生は変わったのかもしれない。

f:id:hiroshi1043:20191108145549j:plain

 ショパンの像から少し離れたところに、一つ年下のリストの像もあった。ショパンが「ピアノの詩人」なのに対し、「ピアノの魔術師」だ。こちらの像はかなり小ぶりだった。

 公園内の何か所かに黒い平板なコンクリートのようなベンチが置いてあった(㊦)。

f:id:hiroshi1043:20191108150009j:plain


表面の丸いボタンを押すとショパンピアノ曲が流れるようになっている。このベンチは公園だけでなく、街の歩道でも見かけた。ベンチによってそれぞれ別の曲がかかるという。

 公園内を散策すると、すっかり秋が深まっていた。落ち葉の上をリスがかけまわり、クジャクもみかけた。「ここにクジャクがいるのかな」と、ちょっと驚いた。残念ながら、羽を広げることはなかった。

 街の中でも、「ここの教会ではショパンが何歳のとき演奏した」という場所を何か所か見て回り、最後は聖十字架教会(㊦)。ここは中へ入った。ショパンは20歳でワルシャワを出ている。ロシアへの蜂起(ワルシャワ蜂起)もあって、2度と帰ることはなかったのだが、ポーランドの伝統的なメロディーを作曲に採り入れているように、望郷の思いは強かった。

f:id:hiroshi1043:20191108153325j:plain

 39歳で亡くなったとき、葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われた。私はこの寺院近くのホテルに泊まり、前を通りかかったことがあるが、その時はショパンの葬儀のことは知らなかった。ともかく、「私の体はポーランドに埋めて」というのが本人の遺言だったが、かなわなくて、心臓だけが壺に入れコニャックに浸して、姉が持ち帰ったというのだ。

 その心臓が、聖十字架教会の柱に埋め込まれている(㊦)。漆喰に

   FRYDERYKA CHOPINA

   HERE RESTS THE HEART OF FREDERICK CHOPIN

と書かれてあった。なぜそこに英語があるのか、わからなかった。

f:id:hiroshi1043:20191108153522j:plain

 死因は肺結核とされている。それを確かめるため、研究者たちが2004年、ひそかに壺を開けて調べたが、DNA検査は行うことができず、確証は得られなかったらしい。

 郊外の生家には30分ほどかかった。農村地帯で、父がここの領主というか、貴族というかのフランス語の家庭教師だったからだ。当時のポーランド貴族にとってフランス語は必須だった。使用人住宅が生家だが、ショパンゆかりの家ということで、貴族の家にしかない玄関わきの太い円柱が、後に増築されたとガイドは説明していた。

f:id:hiroshi1043:20191108153849j:plain

 周囲は大きな公園になっていた。ゲート横の事務所には売店があって、土産物を売っている。ツアー仲間の一人が、孫の土産にピアノの楽譜を入れるトートバックを買っていた。これを持ってレッスンに通ってもらおうというのだ。

 私たちのホテルの近くに、ショパン国際コンクールの会場があると知って、ワルシャワを出発する朝、駆け足で行ってきた(㊦)。次回の本大会は来年10月だ。(続く)

f:id:hiroshi1043:20191108154117j:plain