手術後、まる5年を迎えて

スマートフォン用の表示で見る 手術後、まる5年を迎えて 編集 1月19日は、私にとって第二の誕生日のようなものだ。麻酔薬で意識を失う前、「目覚めさせてくださいよ」と念を押して手術室に入ったのは、ちょうど5年前。回復室で生きかえったのは、半日後…

◎バルト3国・ポーランド紀行12

クラクフの休日 ツアー最終日、アウシュビッツ・ビルケナウ見学と夕食がオプションで組まれていた。私たちは数年前に行ったことがあるので、パスしてゆっくり過ごすことにした。朝オプション組のバスを見送ったあと、タクシーでユダヤ人が居住するガジミエシ…

◎バルト3国・ポーランド紀行11

古都クラクフを歩く ワルシャワからクラクフまでは列車移動、スーツケースはバスで運ばれるので、手荷物一つの気軽な旅だ。駅近くで昼食を摂っている間にバスは到着していた。休まずひた走った運転手に感謝。 クラクフは王城の地で、京都のような古都だ。街…

◎バルト3国・ポーランド紀行10

復興の街ワルシャワ 私にとってのワルシャワは『ワルシャワ労働歌』の街だ。まだ学生運動という言葉が何かしら意味を持っていた時代、反抗することで社会への申し立てをする、その一点で集まっていた。そうした集会で合唱されたのがこの歌だった。もともとは…

◎バルト3国・ポーランド紀行9

ショパンを巡る ショパンは1810年、ワルシャワ郊外で、フランス人の父親とポーランド人の母親の間で生まれている。1830年にウィーンに向けて出立、その翌年パリに落ち着いたのだが、ワルシャワ時代にもすでに活発な音楽活動を行っている。ピアノ演奏…

◎バルト3国・ポーランド紀行8

ショパンの夕べ カウナスのホテルを出発すると、一路ワルシャワに向かう。この日は500キロ近い工程で、長いバス旅となる。私たちがこのツアーを選んだのは、妻がショパン・コンクールを扱ったアニメにはまっていて、舞台となったポーランドを訪れたいと強…

◎バルト3国・ポーランド紀行7

命のヴィザ ビリニュスを出ると、30分ほどで保養地のようなところに着いた。湖に浮かんだ小島に赤茶けた城がある。トゥラカイ城だ(㊦)。城の観光が目的ではなく、昼食をとるためだ。 城の対岸を少し歩いて、レストランにはいった。出てきたのは、トゥラ…

◎バルト3国・ポーランド紀行⑥

人間の鎖・バルトの道 ビリニュスは、平坦な街だが、小高い丘がいくつかある。私たちがやってきたのは、その中では最も高い3本の十字架の丘で、頂上に白いコンクリート製の十字架が立っている(㊦)。 ふもとでバスをおりて、なだらかな坂道を登っていくと…

◎バルト3国・ポーランド紀行5 バルトのベルサイユ ロールキャベツの昼食の後、向かったのは約80キロ離れた『ルンダーレ宮殿』(㊦)。この宮殿には、愛と苦しみの歴史があるという。ロシアの女帝アンナの寵愛を受けたクーラント公(クーラントはラトビア…

◎バルト3国・ポーランド紀行➃

リガの見どころは建築群 私たちがラトビアの首都リガの観光をした日、たまたまこの春に選出されたウクライナのゼレンスキー大統領が訪問していた。彼は、すぐあとに訪日して、天皇の即位礼に列席したはずだ。警護のため交通規制にあっては、ということで、午…

バルト3国・ポーランド紀行③

年甲斐もなく恋人の聖地へ 旅の前半は、市内の観光を駆け巡り、午後はバスでトイレ休憩を取りながら次の目的地に向かうというせわしないものだった。だから、タリンを出ると、時おりバルト海を右手に見ながら、ラトビアとの国境を目指す。エストニアもラトビ…

バルト3国・ポーランド紀行②

タリンは箱庭のような街だった バルト3国はどこもそうなのだが、東はロシア(ソ連)、西はドイツ、時として北のスウェーデンと、大国の狭間で占領されたり、それから逃れようとしたりして生きてきた。ナポレオンが押しかけてきたこともある。ソ連を離れ、独…

バルト3国・ポーランド紀行①

https://blog.hatena.ne.jp/hiroshi1043/hiroshi1043.hatenadiary.jp/edit?sidebar=fotolife ツアーで行ってきました 旅から帰って1週間、記録を残しておこうと、スマホに撮っておいた写真200枚ばかりをチェックしてみたら、記憶が定かでないところも出…

晩夏に思う、贈り物をもらったと

わが家の狭い庭に百日紅が咲いている。この花は、はるか前の高校時代の思い出とつながっている。それは、教師がボランティア精神でやってくれていた夏期補習の教室の窓からも見えていた。教師が「この花が終わると夏が終わるよ」と言ったのを覚えている。予…

Hatena Blogへ移行

Yahoo からHatenaへ移行することにしました。 今後も身の回りのことや旅行記を綴ってまいります。よろしく。 2019・8・26

母校が甲子園にやってくる

田舎の公立校なんだけど わが母校は、歴史は古いのだけど、地域の人口減少と並行するように、存在感が薄れかけているようにみえる。大学進学状況も下降気味で、どこにでもある普通の県立高校である。OBとしては、母校が地域の人材の養成を担う教育機関とし…

術後4年半の検診

もう少し生きなさい、ということか 3か月ぶりにかかりつけの病院へ出かけた。最初に採血。連休前のせいか、患者があふれている。採血室の待合には20人分ほどの椅子があるが、満員で空席はない。受付で名前を言うと、「廊下でお待ちください」とのこと。こ…

ドイツ映画見ました

つらいシーンが多かった タイトルが長い。「僕たちは希望という名の列車に乗った」。東西ドイツがあった時代、まだ両国を隔てる壁が作られる前の1956年にあった実話に基づいたストーリーだという。こんなことは分断国家だけでなく、異なったイデオロギー…

チェンマイ再々訪⑨完

最後の晩餐は屋台で ショッピングの日曜日、夕食はチェンマイから車で1時間ほどの田舎町にあるレストランで摂った。テーブルのすぐ前は草原が広がっている落ち着いた場所だ(㊨)。店の主人はアメリカのテレビ番組にも出演したこともあるという、なかなかの…

チェンマイ再々訪⑧

ショッピングと焼き鳥 チェンライからチェンまでの道路わきで果物を売る屋台が目についた。パイナップルだけを棚に並べている“店”が数百メートルおきに連なっているところもあった。車を停めて寄ってみると、手際よくカットしてくれる。大変みずみずしかった…

チェンマイ再々訪⑦

チェンマイ市内散策 ゴルフ組は案内役のLさんも伴って朝早くに出かけたので、私は妻と二人で街をぶらつくことにした。昨年は体調を崩して留守番をした後、一人で散策したのだが、自由気ままに動ける一人歩きと違って、つれがいると、目的地を決めておくのが…

チェンマイ再々訪⑥

さようならチェンライ 離宮に行った日の午後、市内のマーケットを歩いた。土産物を求める観光客の多いナイトバザールと違い、昼間のマーケットは、地元の人たちの生活が垣間見える。日用品とくに食料品が並んでいる。ここの人たちは、家庭で料理することはあ…

チェンマイ再々訪⑤

花園に囲まれた王母の離宮 チェンライ最終日は、案内役兼運転手のLさんが、ゴルフには参加しないで、私たち夫婦の案内してくれることになった。この日は早起き。ゴルフ場で、みんなのスタートを見送った後、約1時間かけてミャンマー国境に近い山へ向かう。…

チェンマイ再々訪➃

歩き疲れた自由行動日 国境地帯を訪れた翌日は自由行動日だった。ゴルフ組は朝早くに出かけていた。残された私たち夫婦は、ホテルで終日過ごしてもよかった。だが、まてよ。せっかくここまで来てぐずぐずするのはもったいない。ガイドブックを頼りに歩き回る…

チェンマイ再々訪③

金三角と呼ばれていた この日の最終目的地はゴールデン・トライアングルだった。私は黄金の三角地帯と訳して、タイ北部とラオス、ミャンマーの3国が国境を接し、中國・雲南省もすぐ近くに迫るというその一帯をさすものと解釈していた。ケシの栽培とそこから…

チェンマイ再々訪②

あの洞窟も観光スポットに 2日目の朝。前夜の到着が遅かったので、ゴルフ組のみんなも私たちと一緒に観光することになった。ゴルフのためには、朝早く出発してよい順番を確保するのが望ましいそうで、無理に早起きする必要もないと判断してのことらしい。チ…

チェンマイ再々訪①

黄金の三角地帯へ行くぞ 乗り換えの香港は雨だった(㊨)。そのせいか、出発が30分以上も遅れた。チェンマイ空港に着いたのは、現地時間で午後6時(日本時間8時)。今回の旅もゴルフで半月を過ごそうという6人グループに私たち夫婦が参加した。ただし私…

MORRIE先生を読む

Tuesdays with Morrei 表題の本(㊨)を事情があって、書き写しながら読んだ。後でプリントアウトして読み返すと、複数のSが抜けていたり、部分的に欠落していたりと校正に手間取った。日本語の訳本も出ているので、読んだ人も多いと思うが、簡単に説明する…

がん手術後5年目に突入

新たな1ページへ クリスマスイブの日、紅茶色の尿で始まった私の体の異変。年が明けて十二指腸とその周辺を切除する手術を受けて闘病生活がスタートした。手術からちょうど4年が経つ。手術直後、執刀医から説明を受けたとき、「あと何年生きたいですか」と…

敗血症?からの帰還㊦

きつい薬だったのかな 抗生剤の点滴が始まると、下痢に悩まされるようになった。もともと、私の手術後には便秘より下痢の方がましと言われてきた。便秘で食べたものが手術した場所にとどまると、そこから細菌が胆管や膵管に流れて炎症の原因になる。だから、…